2022.09.12

技術のバトン

音響シミュレーションツールに連なる技術の系譜

音楽ホールや劇場を建設する際、もっとも重要な要素のひとつが音響性能です。専門性の高いその評価を音響の専門知識を持たない人にも解放したのが、開発者ストーリーで取り上げた室内音響予測・評価ツールです。この画期的なツールも一朝一夕に成立したわけではありません。長い時間をかけて積み上げられてきた知見やノウハウが結集したものです。今回は室内音響予測・評価ツールにつながった技術の系譜を見てみましょう。

左から技術研究所 環境基盤技術センター 音環境グループ 研究員 清家 裕喜子、技術研究所 環境基盤技術センター 主席研究員 宮島 徹
左から技術研究所 環境基盤技術センター 音環境グループ 研究員 清家 裕喜子、技術研究所 環境基盤技術センター 主席研究員 宮島 徹

清水建設の音環境に関する取り組みをさかのぼっていくと、1960年代にその萌芽が見られます。間仕切り壁の遮音の研究がはじまったのが1960年のこと。当時は遮音や騒音対策が主要な関心事であり、社内の技術支援を中心に、測定技術の確立を目指していたようです。1975年頃から残響時間の評価、室内音響予測などに関する研究など、本格的な取り組みも始まり、業務は「社内技術支援」と「研究・開発」の二軸で展開されるようになりました。

社内技術支援:スタジオから航空機エンジン施設、歌舞伎座まで

テレビ東京天王洲スタジオ(1999年竣工)

TV東京天王洲スタジオ。250坪と150坪の2つのスタジオの音響設計を実施。その後のスタジオ建設案件の礎ともなった
TV東京天王洲スタジオ。250坪と150坪の2つのスタジオの音響設計を実施。その後のスタジオ建設案件の礎ともなった

清水建設の設計・施工としては初のデジタル対応高品位スタジオという案件でした。

「それまでテレビスタジオに特化した取り組みの経験が少なかったため、遮音、固体音対策、室内音響など、すべてが手探りの状態でした。先輩研究員とともに基礎的なデータの取得からスタートさせ、およそ3年くらいかかった案件です」(宮島)

成田空港ノイズリダクションハンガー(1999年竣工)

成田空港内に建設された国内初の格納庫型の航空機エンジン試験施設(消音施設)です。ジェットエンジンはある程度以上の整備を行った後は、フルパワーで稼働させて異常がないか確認しなければなりません。成田空港は周辺への騒音規制が厳しく、そのテストを実施するのに、厳しい制限がかかる状況でした。そこで格納庫型のエンジンテスト施設を新設することになり、宮島らが音響設計を担当しました。

成田空港ノイズリダクションハンガーはピーク時には年間2000回もの試験が実施されるほど重用される施設となった
成田空港ノイズリダクションハンガーはピーク時には年間2000回もの試験が実施されるほど重用される施設となった

「施設を完全に密閉してしまえば騒音の問題は容易に解決しますが、ジェットエンジンの燃焼には大量の新鮮な空気が必要で、排気の問題もあります。騒音の遮断と空気の流通という相反する命題をクリアするのに苦労しました。シミュレーションだけでは低周波音を含めた詳細な検討ができなかったため、1/50の模型を作って実験を繰り返しました」

歌舞伎座(2013年竣工)

上記の模型を作って検証するという手法がフル活用されたのが、2013年に竣工した第五期歌舞伎座でした。1889年の開場以来、老朽化や戦災などにより改修、建て替えが行われてきた歌舞伎座。宮島らが関与した音響設計の主題は、1950年の竣工以来約60年間、多くの人に愛された第四期歌舞伎座の音を再現するということでした。

音響検討用に作られた1/10模型には舞台や花道に音源を設置し、小型マイクロホンを客席に設置。フェルトで着衣と髪の毛を模擬した人の模型も設置して測定と検証を繰り返した
音響検討用に作られた1/10模型には舞台や花道に音源を設置し、小型マイクロホンを客席に設置。フェルトで着衣と髪の毛を模擬した人の模型も設置して測定と検証を繰り返した

「実験棟の一部を使用して1/10の模型を作成し、音響性能の確認のために4ヶ月かけて実験を行いました。その結果は天井の形状や、壁面の業平格子の仕様など、音響に重要な役割を果たしている部位・部材の設計に反映されています。消防に関する法規制のために当時の材料が使えなかったり、通路を広げたい、席を増やしたいなど、いろいろな制約で物理的に同一の形状にできない中、うまく再現できていると思います」(宮島)

竣工前の試演の際、お客様から「第四期歌舞伎座と同じ響き」との言葉が聞けた時には15年にわたる肩の荷が下りたと感じたそうです。

研究開発:「音響」x「デジタル」で何ができるか

研究開発分野としては、室内環境における音の響きや伝わり方を設計段階で予測・評価する基幹技術の開発や、その計算結果を実際の音にして提示することができる可聴化システム、さらに音を本来の姿である「波動」として予測する技術の開発などに取り組んできました。こうした基幹技術は室内音響予測・評価ツールの開発に大きく貢献した直系の祖先といえるでしょう。

  • 1990年代 可聴化システム実用化に向けた実験中の宮島
    1990年代 可聴化システム実用化に向けた実験中の宮島
  • 波動音響予測計算を使った建物内の固体伝搬音予測の例(朝倉)
    波動音響予測計算を使った建物内の固体伝搬音予測の例(朝倉)

このようなキャリアを重ねてきた宮島が室内音響予測・評価ツールの開発に思い至った理由について、次のように話します。

音響研究を牽引してきた宮島
音響研究を牽引してきた宮島

「音響の検討は設計プロセスの後期段階から始まることが多く、その段階では設計変更が難しいというケースがままありました。音響的に『こうしておけばよかったのに』となっても、それを修正するにはさらに労力も時間もコストもかかってしまうというケースが少なからずあったのです」(宮島)

そんな中、2019年にはシミズの中期経営計画やDX推進という全社方針が打ち出されました。

「この全社方針に対して音環境グループで何ができるか、ディスカッションのとりまとめを清家さんにお願いしていました。『音響』で『デジタル』なら、このようなシミュレーターの開発になるであろうと思っていたところ、当社のデジタルデザインセンターからも3次元CADデータを活用したシミュレーションをやりたいという話がきた。落ち着くべきところに落ち着き、最適な人がリーダーになったと思ったものです。コロナ禍での開発ということになり本人は悩んでいたようですが、清家さんが担当したからここまでうまくいったのだと思います。」(宮島)

音響の専門知識を持たない設計者でも、設計の初期段階から音響についての検討ができるようになれば、そんな残念なケースを減らすことができます。それだけでなく、設計当初から音響が考慮された、音の良い建物が増えることにもつながるでしょう。宮島がこれまでに蓄積していた知見やノウハウは、室内音響予測・評価ツールの開発を担当した清家を経由し、ツールに総動員されているそうです。

開発プロジェクトを主導した清家
開発プロジェクトを主導した清家

「宮島さんたちが積み上げてこられた技術的なバックボーンがなければ、予測結果を評価するという機能までは実装できなかったでしょう」(清家)

そこに建物が、空間がある以上、音に対する対応は不可欠なもの。宮島らが積み上げ、継承してきた音響に対する取り組みは、今後もますます重要になっていくに違いありません。