2020.11.16

ConTECH.café

想像力において昔の人のほうがずっと自由で豊かだった

インフォデミックという想像力の劣化

科学的価値観(思考のベース・判断の根拠)が大前提の24時間電子情報まみれの生活が、われわれの想像力をずいぶんと弱らせてきたように思う。その現実を、コロナは問答無用に暴き出した。自粛下、われわれは褒められた行動を取ったと言えるだろうか。都市生活者は特に。キーワーカーと呼ばれる人たちへの心ない言動、マスクを探して右往左往。トイレットペーパーやティッシュペーパーは国内製造で十分に在庫はあるとの業界団体のアナウンスをデマのつぶやきがかき消した。根拠のない○○がなくなるぞー、幼稚なおまじないレベルの○○にコロナは弱い(イタいのイタいのとんでけーのおさすりの方が、よっぽどメンタルケア効果がある)と吠えまくるオオカミ老若男女がネット上にぞろぞろ。

確かに、不安や恐怖は、サバンナで地上生活を始めたご先祖様のうち一番敏感に感知して真っ先に逃げおおせた者たちがわれわれの先祖なわけだから、きわめて正常な反応である。しかし、それをどう処理するかは、想像力の範疇だ。教養がものを言うのだ。

関東大震災とかを経験した近代日本人は、寺田寅彦の言うように「天災は忘れたころにやってくる」が、人知ではどうしようもないので「正しく怖がる」心構えはしておけという教訓を残してくれた。3.11でそれは見直されたが、当事者感をもって血肉化されることなくいつの間にか忘却の彼方へ。そこにコロナが急襲した。結果は推して知るべし。

「正しく怖がる」って、どういうこと?

地震雷火事親父、怖いものはなんでも怖い。「正しく怖がる」なんて言われても恐怖に理屈なんてない。ただ、怖い!

それでもあえてロジカルに分解するとすれば、不安や恐怖の元が何であるかを理解しつつ、その影響の種類や大きさを把握し、どう対処すべきかを明らかにすること、だろうか。災害の発生原理から氏素性をほじくり返し、性格を読み取り、その性格が凶暴か温和か見極め、その結果どこにどんな被害が発生するのかを推定してみる。そのうえで、当事者として何ができるかを冷静に判断する。「正しく怖がる」とは、こういうことかもしれない。

現代防災用語的には、「BCP(事業継続計画)」「タイムライン防災」か。BCPは、過去から未来へ続く事業や生活が、被災後も途切れなく連続的であるためにどういった準備をする必要があるか考えるもので、一方、タイムライン防災は、災害の発生が予測可能な場合に被災を最小限にするため、いつどんな行動を起こすべきか、ということを整理しておくものだ。

それぞれに自治体で用意されているが、果たして事前に読み込んでおくことが「正しく怖がる」ことになるのだろうか?

中世の人たちは、戦うのではなく「折り合いをつける」道を選んだ

それも、類いまれな想像力とユーモアをあらん限り発揮しながら、Withをある意味、余裕さえ感じる「豊かな」ものにした。現代のように科学的な知識も医療技術もないなか、目の前でバタバタと知り合いが、身内があっけなく死んでいく。目に見えないとてつもない力の、底知れぬ怖さ。それは、戦ってもかないっこない。クマやイノシシなら仕留める術を受け継ぎ、美味しく頂く方法も磨いてきた。しかし、疫病は、そうした見える存在ではなく、人智をはるかに超えたもの。神仏の領域に属するものなのだ。目に見える自然でさえ、人力ではどうしようもない猛威をふるう。その背後に、神仏を感じ取り、ただ祈るしかない。だが中世人は、虚無主義に逃げ込むことなく、「畏敬」の念をもって、そやつの正体を「鬼」という表象として見事に視覚化した。これぞ「知恵」というものだ。

「畏怖する心=Something greatを感じる心」を取り戻す

奈良国立博物館所蔵の国宝「辟邪絵 天刑星」。大きな鬼(神様)は4本の手で小さな4匹の鬼(疫病)をむんずと捕まえ、いままさに画面左下の酢桶に浸して食おうとしている。その悪鬼の表情は何ともトホホに描かれている。それを見た民衆は、ああこんなものかとホッとひと安心。最高のビジュアル・メンタルケアだ。いまわれわれが目にする電子顕微鏡での高精度の画像からは、なるほど王冠には見えるが、安心とかの感情はなにも生まれてこない。

もう一つ、3世紀後の天然痘が蔓延した15世紀初頭に描かれた「融通念仏縁起絵巻」という京都の清凉寺に伝わる絵巻。とある屋敷に押し寄せる鬼たち(天然痘の表象)、屋敷内では多くの善男善女が天然痘退治の念仏をしている。青い衣の主人は門前で念仏に参加する人々の名簿を鬼たちに示し、お前たちが来るべきところではないと諭している。鬼たちはその信心の篤さに感服。名簿の各人の名前の下に「この人には悪さはしない」と署名し退散していった。仏の功徳を目で分からせるとともに、当時の人々には、絵巻物という物語は、ひやひやドキドキしつつも必ず終わりを迎えるというリテラシーがあった。だから「そうか、いまはつらいけど、大丈夫なんだ」と了解できたのだ。

BCPやタイムライン防災を読むだけの上辺の理解でなく、もう少し深いところで「正しく怖がる」方法を理解するためには、これら絵巻物での表現が参考になるかもしれない。

それにしても、門前の鬼たちの、なんともひょうきんなことよ。先人たちの、いともたやすく命を奪うにっくき敵を、こうして視覚化することで心理的に「手なずけてしまう」「いなす」ユーモアセンスは、わたしたちが見習うべき高度な教養だと思う。

7月、京都の都大路に、コンチキチンの鐘の音はない。疫病鎮護で始まった祭りなのにである。らっせーらー!らっせーらー!青森で、あの跳人の生命の飛躍はなかった。2020年の日本の夏、キンチョーの夏、だった。

大槻 陽一
有限会社大槻陽一計画室 ワード・アーキテクト