特集

ものづくりへの想い

日本酒づくりの文化に感動 伝統技術を次世代へつなぐ

セーラ・マリ・カミングスさんは、1991年から約1年間、交換留学生として関西外国語大学で日本の文化に親しみ、「将来は日米の架け橋となるような仕事をしたい」と夢を膨らませます。1993年春、地元ペンシルベニア州立大学を卒業したセーラさんは、冬季五輪の開催が決定した長野で「クリエイティブな貢献をしたい」と再来日を果たします。

そして1994年、勤務先の上司に紹介されたのが栗の名産地・長野小布施町にある栗菓子の老舗、小布施堂でした。決して流暢とはいえない日本語で、電話一本で小布施堂の市村次夫社長に会いに行き、その場で入社が決定。以来、持ち前の積極性と独自の視点・アイデアで、小布施堂の関連会社・桝一市村酒造場の改革に着手。和食レストラン「蔵部(くらぶ)」の建設や、新酒「スクウェア・ワン」の開発、木桶仕込みの名酒「白金(はっきん)」の復活を成し遂げるなど、日本酒づくりを舞台に、日本のものづくりの伝統継承と革新に挑み続けています。

そんなセーラさんに、数々の取り組みに込めた想いをうかがいました。

株式会社桝一市村酒造場 代表取締役
セーラ・マリ・カミングス氏

アメリカ・ペンシルベニア州生まれ。1994年6月、栗菓子の老舗・株式会社小布施堂に入社。1996年1月に 酒師認定取得。1997年から小布施堂の関連会社である桝一市村酒造場の再構築事業に取り組む。1998年、小布施堂と桝一市村酒造場の取締役に就任。2001年12月には『日経ウーマン』主催「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002大賞」を受章。2004年、株式会社文化事業部を設立、代表取締役に就任。以後も桝一市村酒造場の改革を続け、2007年9月に宿泊施設「桝一客殿」をオープン。

桝一市村酒造場ホームページ http://www.masuichi.com/

260年続いてきた文化を今ここで失いたくない

小布施堂に入社した年の冬、桝一市村酒造場の酒づくりを一日体験する機会がありました。厳しい寒さの中、仕込み作業をする職人さんにまじり、代々伝わる日本酒づくりの文化を目の当たりにし、「地球の裏側からやってきた価値があった」と心から感動したのを覚えています。日本酒づくりに強く惹かれたのはこのときからですね。

その一方で、一つの不安を抱きました。職人さんたちが晩年になったとき、その技術を引き継ぐ人がいなければ、いずれ日本酒づくりの伝統技術が消えてしまうのではないかと。

当時海外では日本酒の評価が高まっているときでした。しかし、日本人は身近なものは意外に見落としがちです。私からすれば、創業260年というアメリカ建国より長く続いてきた桝一市村酒造場の日本酒づくりの技術をここで失うのはあまりに情けない、もう一度見直し、未来に伝えなくてはと思ったんです。

桝一市村酒造場本店近くからは北信濃の山々が見渡せる

昭和30年代に廃れた木桶仕込みの復活へ

そこで挑戦したのが、かつて木桶仕込みでつくられていた桝一市村酒造場の名酒「白金」を復活させることでした。当時2000年(ミレニアム)が近づいていたこともあり、21世紀に何を残したいかを考えたとき、私はこれまで日本人が大事にしてきた木の文化を継承していくべきだと思い当たったんです。

木桶仕込みは、木桶に生きる微生物を吸い込むため各蔵元で味が異なり、複雑な味わいに仕上がります。しかし、使い勝手がよく、味が均一に仕上がるホーロータンクにとって代わられ、昭和30年代に廃れてしまいました。

当時、全国におよそ二千あるといわれた蔵元の中で、木桶を使用しているところは一つもなし。そんな状況の中、昔の木桶仕込みを唯一経験していた大杜氏の遠山さんに頼み込み、木桶職人を探し出すところから始めたんです。また、以前使われていたのと同じ米の調達などにも奔走し、なんとか2000年に間に合うかたちで「白金」の復活に成功したんです。

大杜氏の遠山さんとは名酒復活を通じて強い絆が生まれた。
写真左のボトルは二人が協同して初めて開発した「スクウェア・ワン」

「何もしないことのほうが怖かった」

小布施堂に入社した年の冬、桝一市村酒造場の酒づくりを一日体験する機会がありました。厳しい寒さの中、仕込み作業をする職人さんにまじり、代々伝わる日本酒づくりの文化を目の当たりにし、「地球の裏側からやってきた価値があった」と心から感動したのを覚えています。日本酒づくりに強く惹かれたのはこのときからですね。

その一方で、一つの不安を抱きました。職人さんたちが晩年になったとき、その技術を引き継ぐ人がいなければ、いずれ日本酒づくりの伝統技術が消えてしまうのではないかと。

当時海外では日本酒の評価が高まっているときでした。しかし、日本人は身近なものは意外に見落としがちです。私からすれば、創業260年というアメリカ建国より長く続いてきた桝一市村酒造場の日本酒づくりの技術をここで失うのはあまりに情けない、もう一度見直し、未来に伝えなくてはと思ったんです。

桝一市村酒造場の周辺は、和食レストラン「蔵部」や宿泊施設「桝一客殿」、
葛飾北斎の肉筆画美術館「北斎館」などが集まり、毎日大勢の観光客が訪れる

会社は”預かりもの“よりよい状態で次の世代へ渡したい

これまでのプロジェクトの推進途中では、「社長は俺たちを選ぶのか、セーラを選ぶのか」と内部から反発されることもありました。それでも市村社長は常に私の味方になってくれました。なぜなら社長には、「会社は自分たちのものではなく、預かりものである」という気持ちがあったからです。預かっているからには、よりよい状態で次世代に渡していきたいと。

私自身、いつもお客様のために尽くしたいという気持ちがあるので、お客様にとってよいことだという確信がある限り、迷いはありません。最近も経理関係のIT化を進めたところ、当初はその効果に一部懐疑的な社員もいました。しかし、コストと時間の無駄を省けることが数字で目に見えてくると皆が納得。結果として、社員がお客様に接する時間も長くなりました。改革はお客様や社員を大事に思ってのことなんです。

桝一市村酒造場本店。同社の記録によれば、創業は1755(宝暦5)年
宿泊施設「桝一客殿」の敷地内。長野の老舗砂糖問屋から譲り受けた土蔵などを移築・再生。
現社長の祖父・15代社長の「宿泊施設をつくりたい」との100年越しの夢を叶えた

若者を通年雇用し酒づくりに呼び込む

日本には素晴らしい伝統技術がたくさんあります。しかし、偉大な職人さんがいても、それを引き継ぐ若者がいない。とても残念なことです。幸い、桝一市村酒造場には「酒づくりをしたい」と希望してくる若者が増え、年々競争が激しくなっているんですよ。

その理由は、伝統技術に関心を持つ若者が増えたこともありますが、桝一市村酒造場では職人さんの通年雇用を約束している点が大きいと思います。昔の職人さんは仕込みの時期だけの短期間雇用が一般的でした。しかしここの職人さんは冬の寒い時期に日本酒づくりを行い、それ以外の季節は本店やレストランを手伝ったり、最近では2007年にオープンした宿泊施設「桝一客殿」でフロント業務や清掃業務などを担当しています。桝一市村酒造場の事業全体で人材をローテーションするようにしたことで通年雇用を可能にし、若者を酒づくりの世界に飛び込みやすくしたんです。

和食レストラン「蔵部」の店内。
職人さんが酒づくりの期間に食す「寄り付き料理」と桝一市村酒造場の日本酒が味わえる

「小布施ッション」で若者に成長のチャンスと知的な出会いを

一方、私自身の後進の育成を考えると、私が社長にそうしてもらったように、20代から30代のパワーが溢れているときにチャンスを与えることがとても大事ですね。桝一市村酒造場本店の大改装に着手したときは、自らハンマーを振るって壁を壊していったものですが、それも当時20代で怖いもの知らず、パワーがみなぎっていたからこそできたことです。

ただ、私が「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002大賞」に選ばれ、桝一市村酒造場や小布施町が思いがけず全国的に注目を浴びるようになったとき、それまで早く走り続けたせいか、ふと気づいたら社内でも地域でも私より若い人が誰もついてきていなかったんです。

それもあって、2001年8月から月1回ペースで、各分野で活躍する第一線の人たちをゲスト講師に迎え、小布施町内外から集まった参加者と知的交流を行う文化サロン「小布施ッション」〈小布施でのセッション(集まり)と英語のobsession(こだわり)を掛けた言葉〉を開くようになったんです。地域を強くしていくにも、柱になる人が複数いたほうがいいし、そうした人を育てるには出会いが必要。「小布施ッション」を通じ、特に若い人たちが夢やビジョンを描くきっかけになればと思っています。

持続可能性を考えたものづくりを継続していきたい

小布施町は元々は農業の町。ですから、どこにでもあるようなロードサイドモールなどが乱立するのではなく、この先もずっと、豊かな里山が大切に守られ続けていってほしいですね。私自身、これからは自宅を拠点に農業に携り、農家に代々伝わってきた知恵を学んでいこうと思っています。それもまた日本の伝統の継承です。

そして、私の願いはもう一つ。100年後も、桝一市村酒造場が今と同様の規模で続いているとうれしいです。日本の企業は事業が軌道に乗ると、すぐに拡大路線を取りがち。企業の持続可能性を考えれば、適正規模は必ずあります。桝一市村酒造場と小布施堂グループは江戸時代からずっと100人程度で続いてきました。ですから、これからもその規模を守り、若者へ技術を継承して、ここでしかできない日本酒づくりと、地域に密着した事業を継続していきたいと思っています。

本ページに記載されている情報やPDFは清水建設技術PR誌「テクノアイ5号(2009年7月発行)」から転載したものであり、内容はすべて発行当時のものです。