2019.10.15

建設的な未来(日本SF作家クラブ)

コラボレーション企画
建設的な未来

「海が、見える」イメージイラスト

「悪いんだけど」
固定電話の受話器に向かって、洋子は鼻声で言った。

「風邪をひいちまったらしい。明日は行けないよ」
「そう。わかった。無理しないで」
洋子には、声を聴いただけで喬美ががっかりしているのがわかった。

明日の朝は、除幕式だ。建設中の円柱形のタワービルから、ブルーシートが剥がされる式典。その場で、喬美は、何やらの表彰を受けることになっているらしい。付近の住民はみんな式典に招待されていて、洋子のところにも、第三セクター名義の案内ハガキが来ていたのだった。長い坂道を降りて湾岸道路を歩き、20分もかけてビルの海側にある会場まで行くのは骨だったが、それでも洋子は出席するつもりでいた。

ところが、昨夜から風邪を引き込んでしまったのだ。鼻水が出て喉が痛い。少し微熱もあるようだ。ここ十何年もなかったことで、日当たりの悪さと湿気のせいではないかと洋子は思っていたが、そんなことを孫に言えるわけがなかった。彼女はただ、言った。

「ごめん。お前の晴れ姿を見たかったんだけどね」
「いいの。こじらせちゃったら大変だもの」

少し沈黙があってから、気を取り直したような喬美の声が受話器から響いてきた。
「ヨーコおばあちゃん、2階で寝てるのよね」

いぶかしく思いながら、洋子は答えた。
「ああ、そうだよ」
「じゃあ、見えるかも。もし具合がいいようだったら、窓から見てみて。じゃあ、お大事にね。ごめん、わたし、明日の準備があるから」

洋子が労いの言葉をかけようとした時には、もう通話は切れていた。少し熱っぽい頭を振りながら、彼女は思った。

一体喬美は、何が見えると言うのだろう。

式典は、始まっていた。

「都市は、人の生きる場所であり、暮らす環境であります。都市計画は何よりも環境に配慮して、人と自然との共存を実現するものでなければならないとわたくしどもは考えています…」

空疎で形式ばった市長の言葉を聞き流しながら、喬美は徹夜で解析した光学データのことを考えていた。平滑なガラス壁面に吹き付けたコーティングの半結晶構造は、予想以上に安定していた。複数の層の中で無限に分岐し、折れ曲がるおびただしい数の光路は、レーザー試験の結果、全体として確率の法則に従っているように見えた。つまり、光路長と角度は、実用上ほぼ揃っていると言えるのだ。100パーセントである必要はない。放出光のおよそ75パーセントが受光時の成分を保持していれば、実用上は十分だった。

それは、何年も前に実験室で観察した現象が、50階建ての本物のビルでも再現できると言うことなのだ。

たぶん、大丈夫。
喬美は、拳を握りしめた。

いいえ、絶対。絶対に大丈夫。
わたしは、ヨーコおばあちゃんのために、何年もかけてこの技術を開発したんだから。ヨーコおばあちゃんと同じような全ての人のために。そしてわたし自身のために。

「それでは」

テープカットの代わりに、市長は作業服姿の係員に合図を送った。係員が紅白のリボンのついたスイッチを倒すと、全てのブルーシートに繋がる高張力ワイヤが、コントロールされた速度で、しゅるしゅるという乾いた音とともにほどけ始める。

パジャマ姿の洋子は、鼻をすすりながら、布団の上で身を起こしていた。

2階の窓は開け放たれている。どんな仕掛けなのか、これまで視界を覆っていたブルーシートが、はらはらと解け落ちて行くのが見えた。

シートの下からまず姿を現したのは、輝く柱だった。目が痛くなるほどの光が、ビルの壁面とも思えない輝く円柱から一斉に放出されて、2階の畳と布団を照らし出した。

まぶしくて、洋子は目をしばたたいた。
老いた目が光量に慣れるのには、少しばかり時間がかかった。そして、目が慣れると・・・。

洋子は、思わず驚愕の声を上げた。
「こりゃたまげた。海が、見える!」

その通りだった。海側からビルに当たった光の30パーセントが、コーティング層の内面を反射しながら壁面に沿って導かれ、再び陸側の壁面から放たれている。そして、その光は、全体として量子力学的確率の法則に従い、見かけ上最短経路を辿ったかのように、ほぼ最初の成分を保持していた。

つまり、半結晶マルチポリマーコートを施したビルの壁面は、大雑把に言えば1枚の素通しガラスとして作用するのだ。

だから、ビルは景観を遮らない。

透き通ったカーテンのようなビルごしに海が見える。朝陽と言うには少し高く昇り過ぎた太陽も。
洋子の家の2階の部屋から。75年間、ずっと見えていたままに。

厳密に言えば以前より暗い景色であることになど、洋子は気づきもしなかった。何しろ、孫の喬美が海を返してくれたのだ。自分が両親からもらった海を。

微かな潮の匂いを嗅いだように思った時、老いて遠視の進んだ洋子の目が、透明なビルの下のほうに据えられた演壇を捉えた。紅白のリボンで飾られた小さな演壇には、さらに小さな人影があって、こちらに向かってちぎれんばかりに手を振っていた。すぐに、その人影は涙でぼやけた。

洋子は、風邪で寝込みながらも見ることのできた孫の晴れ姿に向かって、もう一度叫んだ。

「見える。喬美、ありがとう。確かに見えるよー」

ショートショート
草上仁(くさかみ じん)
1959年 神奈川県鎌倉市生まれ。
1989年 『くらげの日』で第20回星雲賞(短編部門)受賞。
1997年 『ダイエットの方程式』で第28回星雲賞(短編部門)受賞。
2019年 『5分間SF』(早川書房)上梓。
イラスト
麻宮騎亜(あさみや きあ)
1963年 岩手県北上市生まれ。
アニメーターを経て、1987年に『コンプティーク』(角川書店)に掲載された「神星記ヴァグランツ」で漫画家としてデビュー。
画集に『麻宮騎亜画集』『麻宮騎亜 仮面ライダーフォーゼ デザインワークス』『STUDIO TRON ART BOOK 1993』などがある。
代表作「サイレントメビウス」「快傑蒸気探偵団」「コレクター・ユイ」「遊撃宇宙船艦ナデシコ」「彼女のカレラ」他。