清水建設×日本SF作家クラブ
建設的な未来

少子高齢化や異常気象、発生が危ぶまれている巨大地震など、日本の行く手にはさまざまな困難が予想されています。

清水建設と日本SF作家クラブのコラボレーション企画「建設的な未来」では、こうした困難を乗り越え、望ましい未来を手に入れるために、私たち建設会社ができるかも知れないこと、また、困難を乗り越えた先にあるかも知れない世界をテーマに、第一線で活躍するSF作家の皆さんにショートショートを書いていただきました。

清水建設ではこれを未来への提言の一つとして受け止め、よりよい未来を「建設」するために、今、私たちがなすべきことについて、この物語を読まれる皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

ショートショートはオムニバス形式の全12話(月1回掲載)を予定しています。第1話は草上仁さんの『海が見える』です。お楽しみください。

第1話
海が、見える
草上 仁

今年八十三歳を迎える洋子は、勝手口の木戸にもたれかかると、口をへの字に曲げて顔じゅうの皺を深めた。問題の物件を仰ぐ彼女の顔に刻まれた皺は、年齢のためだけではない。怒りと悲しみ、それに隠しようのない嫌悪の情が、表情を歪めているのだ。

洋子の口から、言葉が漏れた。

なんていやらしい眺めだろう。全く、長生きはしたくないもんだ。元号が変わるのを二度も経験し、東京オリンピックも二回見たって言うのに、人生のどんづまりになってこんなものを見せられるなんてさ。

洋子が背にしている古い二階建ての家は、彼女の父親が建てたものだった。普請は終戦後だから、洋子はここで生まれたわけではない。それでも、物心ついて以来、新制小学校の一年生に上がる前から、彼女はこの家で暮らして来た。中学にも高校にもここから通ったものだったし、婿養子で入った夫と最初に住んだのもこの家だった。その後一時アパート暮らしのために家を出たものの、結局この家で両親の死を看取ることになり、やがては夫も見送った。

亡くなった父親は、よく言っていたものだ。
二階の窓から海が見えるだろう? だからお前を洋子と名付けたたんだよ、と。

小学生になって少しは道理がわかるようになると、洋子は父親に反問した。でも、わたしが生まれた時には、まだこの家は建っていなかったんでしょう? 父親は、全く動ずることなく答えた。うん、そうだ。でもな、お前が産まれた時、母さんと父さんの心の目には海が見えた。だからお前を洋子と名付けて、やがてこの家を建てて引っ越したんだよ。だからあれはお前の海だ。

街で小さなペンキ屋を営んでいた父親は、どこか茶目っ気のある人だったから、本当か嘘かはわからなかった。それでも、洋子はその言葉を信じた。山肌にしがみつくように建つ家の、一間しかない二階の窓からは、実際海がよく見えた。小さかった洋子が早起きをして、窓際で背伸びをしていると、海から朝陽が昇るところまで見えたのだ。

群青色の海と空を、まず薔薇色の曙光が一線となって分かつ。それから、蜜柑色の太陽がゆっくりと顔をのぞかせて、海面に薄く紗を広げる。燠のように燃えていた波と雲が、黒い型紙のようだった小舟や岩が、次第に明るく輝きだす。

その景色を見る度に、洋子はお腹の底から元気が湧き起こって来るのを感じるのだった。

小学生で、友達と罪のない喧嘩をした時も、高校受験に失敗した時も、初恋に敗れた高校生の時も、子供を産んだ後夫の浮気に気づいた時も、両親や夫と死に別れた時も、そして息子と嫁を事故で亡くして孫の喬美を引き取ることになり、途方に暮れていた時も。

朝陽を見ると、悩みや悲しみも別に大したことじゃないと思えてくる。これまで生きて来たのだし、これからも生きていけるという気持ちになった。何があろうと朝陽は毎日昇り、海はそこにある。もう一日、もう一週間、もう一か月頑張るくらいのことは、ちっぽけな自分にだってできる。なんたって、自分は両親から大きな海の名前をもらったんだから。海と朝陽を目の当たりにすると、洋子は簡単にそう信じることができた。

二階の窓から見える海と朝陽は、こうして七十五年以上にわたって、洋子を癒し、勇気づけてくれてきたのだ。

それが、今はこれだ。洋子は、老いた目をしばたたいた。

第三セクターによるウォーターフロント開発とやらが、洋子から否応もなく景観を奪ってゆく。今、洋子の視界を遮っているのは、海でも山でもなくて、無粋なブルーシートだ。いまいましい五十階建てのマンションビルの足場を覆った醜いブルーシート。

鳴り物入りのウォーターフロント開発のおかげで、もう海は見えないし、朝陽はおろか、洋子の家に日が差すのは、昼前後の僅かな時間だけになってしまった。

狭い裏庭に干した洗濯物はなかなか乾かないし、居間の畳もじめじめと湿っぽい。台所の流しにも風呂場にも、黒いカビがはびこっているような気がする。

今夜は、久しぶりに孫の喬美が訪ねて来る。それなのに、洋子は、喬美が大好きな鯵の南蛮漬けを作るのも億劫になっていた。最近どうも元気が出ない。小さな台所は暗くて妙に青く染まったようだし、今はもう喬美に言うことができないのだ。そら、昨日までそこの海で泳いでた鯵だよ、とは。それが例え罪のない嘘だとしても、言う気になれないのだった。

への字に曲げた唇のまま、洋子は木戸を離れて、勝手口から薄暗い家に入った。

「大丈夫よ、ヨーコおばあちゃん」
と、喬美は言った。

「これはモデルケースなの。あのビルには実験的なハイテク光学技術が使われるんだから」
「ハイテクかも知れないけどさ」
洋子は、愚痴っぽい口調になる自分を抑えることができなかった。

「目の前に、あんなでっかいのを建てられちゃ、もうどうしようもないね。一日中暗くて、海の匂いだって届きやしない。地主でもないあたしが言えた義理じゃないのはわかってるけど、何もこんな田舎に、タワーマンションなんて建てなくていいじゃないのさ」

喬美は首を横に振った。
「もう田舎じゃないもの。来年には、ここまで地下鉄が伸びて、充分通勤圏になるの。今、このあたりの住宅需要は大変なものなのよ」

喬美は、祖母の愚痴を振り払うように左手を振ると、ガラスの鉢に入った鯵の南蛮漬けに箸を伸ばした。
「おいしい。それに懐かしいな。何かいいことがあると、ヨーコおばあちゃんいつもこれを作ってくれたね」

孫にそう言われても、洋子の表情はほぐれない。
「このところ、別にいいこともないけどさ。まあ、今夜はお前が来てくれるっつーから頑張ったのよ、一応。お前、仕事、忙しいんだろ?」

喬美は、鯵を呑み下してから、微笑んだ。
「まあね。今、マルチポリマーコートの検査をしてるから。来週の除幕式に間に合わせなきゃならないっていうんで、しばらくてんてこまいなのは確かよ」

洋子は、掌で目を擦ってから孫の顔を見た。
「忙しいのも結構だけど、お前ももう年頃だろ。そろそろいい人を見つけて…」

 

喬美は、この話題が苦手だった。意中の人がいないわけではないけれど、まだまだやりたいことはたくさんある。自分の人生については、自分で落ち着いて考えたい。ヨーコおばあちゃんといえども、口出しはして欲しくなかった。とは言え、祖母を傷つけたくもない。彼女は、とりあえず冗談で紛らすことにした。

「曾孫の顔を見るのはもう少し待ってもらわないとね。せっかく、ヨーコおばあちゃんに大学まで出してもらったんだし」

洋子は、少し元気を取り戻した口調になった。
「そうだね。今の時代、女はもっと活躍しなくちゃ」
「そうよ」

短く答えてから、喬美は祖母の顔を見つめた。年を取ったな、と思うと涙ぐみそうになった。高校生の時に交通事故で亡くなった両親に代わって、ヨーコおばあちゃんはここまで自分を育て上げてくれた。その時にはもうとうに還暦を過ぎていたのに、年金だけでは足りないとパート勤めにも出たし、大学に進学する時には、虎の子の郵便貯金を下ろして、奨学金の不足分を補ってくれた。正直に言えば、半ば進学をあきらめていた自分の背中を、ヨーコおばあちゃんがどんと押してくれたのだ。女だからこそ、大学は出ておけと言って。

両親を失い、人生は不公平だという漠然とした思いで反抗ばかりする自分を諭し、叱り、励まし、必要な時にはいつも笑顔と慰めをくれた。自分の時間と体力を削って支えてくれたヨーコおばあちゃんにはどれだけ感謝しても足りない。その祖母は今、老いて弱気になり、不機嫌にもなっている。喬美はいつも何とかしたいと思ってきた。ヨーコおばあちゃんの幸せのために、何かを返したい。

その思いが、喬美に今の道を選ばせたのかも知れない。文字通り世の中を明るくするための技術。人のための技術。効率や経済のためだけではなく、人を癒し、人を勇気づけるための技術。少し気恥しいけれど、そんな思いが、喬美を工学部に導き、大学院に進学させ、研究課題を見つけさせ、そして就職先として今の建設会社を選ばせたのかも。喬美はそう思っていた。

でも、このところ、ヨーコおばあちゃんとの会話はうまく行っていない。会話だけではなくて、おばあちゃんとの関係自体が、どこかぎくしゃくしたものになっている。それが悲しい。

鯵の南蛮漬けとほうれん草のおひたし、豚の角煮、豆腐とワカメの味噌汁に炊き立てのごはんというヨーコおばあちゃん心づくしのご馳走を噛みしめながら、喬美にはその理由がわかっていた。

おばあちゃんははっきり言わないけれど、問題は自分が勤めている建設会社だ。その会社こそが、実はヨーコおばあちゃんの不満の原因なのだ。第三セクターに参加してウォーターフロントに用地を買収し、新技術のショーケースでもあるタワーマンションの施工をしているのは、喬美が勤めている会社だった。祖母にとっては、日照や景観を奪う元凶である。ヨーコおばあちゃんは今、手塩にかけた孫に裏切られた気分でいるのかも知れなかった。

「あのね」
喬美は、もう一度説明を試みた。

「今はわからないかも知れないけれど、あのビルには、日照権を守るための先端技術が使われているの。半結晶マルチポリマーコートって言うのよ。おばあちゃん、光ファイバーって知ってるよね? 光ファイバーを使った光の花を見たことがあるでしょう。細い春雨みたいなチューブの先が光ってるやつ。あれと同じよ。ビルの壁面に何層も吹き付けた半結晶のコーティングが、光ファイバーと同じように働くわけ。壁面が受けた太陽の光が、紙みたいに薄いコーティングの内面に反射しながら進むの。そして、ビルの裏側からまた出て来るのよ。わかる? ビルに遮られた光のおよそ三十パーセントを、こうして取り戻すことができるの。余分な光を逃がすことで、ビルの空調コストを下げるのにも役立つわ」

洋子は首を傾げた。
「あたしにゃ、そういう話はよくわかんないよ。大体ハイテクってのはさ、最初の触れ込みはいいことだらけなんだ。テレビだって携帯電話だって、みんなの夢を叶えるって触れ込みだったけど、いざそれを手にすると、だんだんいいことばかりじゃないってわかって来ちゃっただろう? あ、ごめん。別にお前の研究にけちをつけるつもりはないんだけどさ」

「いいのよ」
そう答えながら、喬美は当面の説得をあきらめた。今は意固地になっているものの、ヨーコおばあちゃんはもともと頭のいい人だ。だからその指摘は鋭くて、簡単に言いくるめるのは無理だった。

建設会社に採用されるきっかけとなった自分の研究の成果をヨーコおばあちゃんにわかってもらうには、実際に見せるしかない。当の高層ビルが、無粋なブルーシートに覆われた今の状態で、ただ信じろと言っても無理な話だろう。

「それにさ」
洋子は、言いかけて口を噤んだ。喬美は、相手のためらいに気づいて箸を置いた。
「どうしたの、ヨーコおばあちゃん。何か言いたいことがあるんなら言ってよ」

促された洋子は、口ごもりながらも言った。
「あのさ、日照がマシになったところでさ、もううちの二階から朝陽は見えないんだよね」
「それは・・・」

喬美は答えられなかった。ひょっとしたら、と言いたくなったけれど、まだ実験中のあやふやなデータを明かすわけには行かなかった。

もしもコーティングが十分に薄く、半結晶の精度が確保されていれば。もしも光路が確率的に揃っていれば。もしも回折効果が期待通りに働けば・・・。喬美は結局口を噤んだ。

祖母と孫、二人だけの夕食は、重い沈黙のうちに終わった。